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高校教師が地理・世界史での実践をゆる〜〜く更新

『おしゃれと無縁に生きる』 村上龍

村上龍さんのコラム集

 

引っかかる言葉がいくつもあったのでメモ

 

 

正しい政策と言うものは存在せず、どの層、どの分野に重点的に資源を分配するかだけが問題なのに、その事は話題にもならない。どの政党も、「国民の皆様のため」と言うだけだ。繰り返すが、「国民の皆様」つまり全国民に対し利益となるような再分配政策など存在しない。あちらに資源を配れば、こちらは困窮し、非正規労働者のために「同一労働同一賃金」の法改正をすれば正社員は番を待つ。「争点」が隠蔽され、大手既成メディアを含め、誰もが「利害の対立」に触れたがらない。日本の不幸は、単に経済が停滞し続けていることでは無い。停滞と閉塞体するための政策の「争点」を、喪失していることはのだが、そういった指摘も非常に少ない。

 

生徒に選挙のことを話しても、いまいちピンとこないのは「利害」意識うすいから

理想だけで、実益がないと政治や選挙に興味がわかない

株式投資をはじめて、経済ニュースが自分ごとのように興味を持つように。

 

消費が拡大するかどうかについて、「需要増えるのか」ではなく、「欲望と想像力は復活するか」という問いを立てなければいけないのかもしれない。その予測に関して、私はやや悲観的である。

 

 

だが、絶対に金では買えないものがある。信頼だ。男女間でも、友人同士でも、経営者と従業員でも、金で信頼を失う事はあっても、金で信頼を買うことができない。信頼は、継続的なコミニケーションにおいてのみ発生する。だから1つのファクターとして金銭が介在する場合はある。労働や商品の対価として金を払うと言う約束を守り続けることで信頼を得る、というようなことだ。だが、「世界中が敵に回っても、あの人だけは私を理解し、私の側に立ってくれるだろう」と言うような信頼は、金銭からは生まれようがない。信頼だけは、金持ちも貧乏人も同様に、「誠意あるコミニュケーション」を継続しなければ得ることができない。信頼は、最もフェアな概念である。

 

 

夢を持とう、夢を持ち続ければいつかは叶う、そんなことがメディアで喧伝されるようになったのはいつの頃からだろうか。有名なスポーツ選手、文化人、役者やコメディアン、それに企業経営者などが、メディアに登場し、しきりに夢について語る。「自分が小さい頃から夢を持ち続け、それに向かって努力し続けて、ついに、夢は叶った。みんなもぜひ夢を持って欲しい。夢に向かって頑張ればいつか現実になる」

子供たちは、そういったコメントを聞いて、夢を持たなければならないのかと考えるようになる。一種の、「合成の誤謬」だ。もちろん、夢を抱くのは悪いことでは無い。だが、成功者は、夢を持ち続けたと言うだけで成功したわけではないし、子供たちに、夢を抱くことを結果的に強要することには違和感がある。夢の必要性、重要性について過剰とも思われる情報が流されるのは、実は、夢を持つのが難しい社会だからだ。社会に希望が満ちていれば、夢と言う言葉が多用される事は無い。夢を持とうと呼びかけなくても、私は中学生たちに、次のようなことを話した。

夢と言うより目標と言ったほうがいいかもしれないが、ないよりも、持っている方が良い。しかし、自分には夢や目標がないからと、がっかりする必要は無い。私が中学生の頃、夢も目標も、そんな事は考えたことがなかった。そんなことより、同級生の女の子とか、映画とか、音楽とか、あるいは、漫画を含めた読書とか、そういったことに興味があった。好奇心を失わず、興味があることに積極的に接していれば、いつか必ず何かに出会う。そのための時間を、あなた達中学生は、とても多く持っている」

 

 

私の両親は2人とも教師をして、忙しかったにもかかわらず、どんな質問にも、丁寧に答えてくれた。子供の好奇心を大切に培うために、どんな質問にも必ず答えるようにしていたんだと、後になって父から聞いたことがある。私は「あらゆることに疑問を持ち、質問し続ける」子供だった。

 

 

「避ける」「逃げる」「休む」「サボる」そういった行為が全否定されてるような社会は、息苦しい。

 

 

「歴史を学ぶ」と「歴史に学ぶ」ではニュアンスが違う。私は、実は「歴史を学ぶ」ことには興味がない。歴史学と言う学問があるし、歴史そのものを研究したり学んだりすることには大きな意味がある。だが、歴史は、時代区分や国家、地域など、茫漠としていて、かつ情報量が膨大だ。例えばローマ帝国の歴史だけでも、全貌を知るには、何年、ひょっとしたら何十年とかかるし、研究対象として考えると生涯を費やさなければならないだろう。私は基本的に、小説のための「取材」として歴史書を読む。つまり「歴史に学ぶ」のだ。