社会科ネタ倉庫

高校教師が地理・世界史での実践をゆる〜〜く更新

【本】『野洲スタイル』 山本佳司

ワールドカップのとき、

 サッカー熱が盛り上がった時に読んだ本。

 

いろいろ批判もされているようだけど、

保守的な部活動界に一石を投じる(た??)一冊だと思う。

 

 

僕たちが指導している高校生、つまり10代後半の選手たちは、育成段階に合って、まだまだ完成された選手ではない。この育成年代というのは、自由にサッカーができる最後の時間ではないだろうか。頭も体も柔軟性に富んでいる10代のうちは、短所を修正してチームに貢献するよりも、自分で考え、発送したことを試したり、自分の得意な部分に磨きをかけることに時間と労力を注ぐべきではないかと思う。ところが、結果を求めてリスクを避けてしまう高校サッカーの現場では、点を奪われないように、ミスをしないように、と消極的な戦い方を選らんでしまい、なかなかのびのびとプレーできないのが現状だ。

 

高校時代に燃え尽きてどうするのか、と思う。よく、野球選手が甲子園で連投して、肩を壊したりすることがあるけど、それは本末転倒と言うものではないだろうか。高校を出てからの方が、人間としても選手としてもずっと長い時間が待っているのだ。

 

「神の手のゴール」を、高校教育の範疇で説明できるわけがない。ルールを守りなさい。反則をしてはいけない。高校生は高校生らしく、清く正しく戦いなさい。それで負けたならしょうがない。教育現場と言う無菌室の中では、スポーツは公平に行うものだという倫理観がある。だが、サッカーはそんなに清廉潔白なスポーツではない。勝つための駆け引きがあるし、手でゴールしても「神」と呼ばれる男がいる。それは人生でもおなじことではないだろうか。社会に出ればいつも公平に扱ってもらえるわけではないのが現実だ。サッカーはお題目ではなく、本当の教育をしてくれる。

 

始めたからには一生懸命やってみてほしいと思うのだ。適当に力を抜いていたら、「何のためにやっているのか」と言うことになる。やるからには中途半端な気持ちではなく、「サッカーマン」を目指して、夢中になってやってみてほしい。そうすれば、頑張った先に必ず何かが見えてくるはずだ。

 

この自信と言うものは一朝一夕で身に付くものではない。どうやって自信をつけたらいいか?そう聞かれたら、僕は「小さなプラスを積み重ねるしかない」と答える。

人間は大きく2種類に分けられると思う。一つはネガティブな人間。もうひとつはポジティブな人間である。そして、ネガティブな人間は「マイナスの積み重ね」をしているのに対し、ポジティブな人間は「プラスの積み重ね」をしている。

プラスと言うのは、どんなに小さいことでもいい。むしろ、小さければ小さい穂で積み重なった時にものを言う。たとえば、朝きちんと起きて、登校時間に学校に来る。そんな当たり前のことでいいのだ。今日もちゃんと登校した。明日もちゃんと登校する。それをきちんと1年間続けた人間は、部活の集合や友達との待ち合わせにも「僕は時間に遅れません」と自信を持って言える。

これに対して、毎日のように学校に遅刻してくる人間は、「僕は遅刻しません」と自信を持って言えない。マイナスを積み重ねているので、自信が持てないのだ。たまたま賞をもらうとか、他人に褒められるといったことが一度や二度あっただけでは、確固たる自信は築けない。まぐれということもあるからだ。それよりも効くのは、実は小さな「よくできました」の積み重ねである。要するに、できることをくせにしてしまうのだ。

自分で決めたささいな日課であっても、できなかった日があれば、積み重ねた自信が崩れて、自分に対して半信半疑になる。1年たって振り返った時に、できた日数よりも、できなかった日数が上回っていれば、自分を信じられなくなり、不安が生まれてくる。

 

これと同じ「小さなプラスの積み重ね」を、サッカー部の練習の中でやっていくのだ。たとえばボールをキープしたまま、ドリブルで20メートル先まで走ってみよう。それができたら、「よくできました」。この時、ものすごく低いハードルから跳ばせることが重要だ。

試合の時にも、最初から結果を求めてハードルをいきなり上げるようなまねはしない。「今日は勝つぞ」「今日はゲームを支配するぞ」と言ってプレッシャーをかけるようなことはせず、「負けてもいいから、ボールを大切にしよう」と言うのだ。そうすれば、たとえ負けても、相手に圧倒されても、「ボールは持ててた。やろうとしてたことはできたやろ」と言ってやれる。小さなハードルが跳べたら、必ず「よくできました」をあげるのだ。

 

サーカスの象が、どうして暴れずにおとなしく繋がれているかご存じだろうか。調教の段階で、ネガティブシンキングを植え付けられているからなのだ。

インド象が生まれると、調教師はロープでつなぎ、杭にひっかけておく。ロープから外れているときは、自由に行動させるのだが、ロープでつないでいるときに抵抗すれば、容赦なく鞭でたたいて叱りつける。これを大人になるまで何度も何度も繰り返す。そうすると、もう杭につながれていなくても、細いロープを巻きつけるだけで、象は抵抗しなくなりじっとしているようになるのだという。

大人の象の本来の力をもってすれば、杭を引き抜くことぐらい簡単だし、その気になればサーカスのテントを脱出することは可能なのだ。だが、調教でネガティブな経験を繰り返しているうちに、ロープを巻かれた時には何をやっても無駄だ、人間のそばにいなければいけない、ということが頭の中に刷り込まれてしまう。そうやって仕込まれた象は、自分で自分の限界を決めてしまい、自由に動く気力を失ってしまうのだ。

学校内や家庭でもよくある話だ。特に指導者と言う人間は、自分でも知らないうちに、選手にこの包帯を巻いてしまうことがる。

ある選手がドリブルで仕掛けて、ボールを奪われた。不運なことに、それが失点につながった。そのとき、「何であの場面でパスをださなかったんや」と怒る。何度もそれを繰り返すうちに、その選手はドリブルで突破できる場面でも、ミスを恐れて勝負しなくなってしまうのだ。

もしも、「今回は失敗したけど、いいトライやった」と言ってあげれば、その選手はチャレンジする気持ちを失わずにいられただろうか。

 

選手に何かを要求したり、直接的に指導したいときにも、「ロングボールを蹴れ」と頭ごなしに命令されたら、言っていることは理解できても、実践する気にならないだろう。こういくときも少しだけ言い方を変える。「ロングボールを蹴るチャンスを逃すな」次の瞬間には、選手は「やってやろう」という顔に変わっている。

「今日は芝生がスリッピーだから、相手がミスしてくれるかもしれないぞ」こういえば、芝生が滑りやすいという情報はきちんと伝えながら、この状況は自分たちに有利である、とポジティブなイメージを持たせることができる。

 

やる気のないプレーを見せた選手を叱ったら、その選手がごちゃごちゃと言い訳をしたとする。そんなとき、ストレートに感情を発散させることは当然ある。「ふざけんな!言い訳ばっかりしやがって!」と感情的に怒ることだってある。信念は必要だけれど、常にロボットのように理路整然としている必要はないと思う。気を付けなければならないのは、そうやって感情がぶつかり合った時に、その感情を、選手起用や采配に持ち込まないことだ。基準は常に、プレーがいいか悪いか。目標に対し意欲を持っているかいないか。あくまでも、グラウンド上でのことに限る。プレーを判断するのに、感情はのせない方がいい。例えば、「今日はディフェンスをテーマにする」と言って試合に入り、明らかにディフェンスをしなかったら交代させる。選手起用には、そういう誰が見ても分かるような、はっきりとした基準を持つべきだ。

 

不祥事を起こした生徒を排除するのも、関係ない生徒に連帯責任を取らせるのも、間違っていると思う。連帯責任で大会出場を剥奪して、生徒たちはどれほど傷つくだろう。こういう考えは、プレイヤーズファーストとかけ離れている。

不祥事を起こさないようにピリピリするのもどこかおかしい。高校スポーツには「引退したら大目に見てやるから、引退するまでは我慢しろ」というようなムードがあって、逆に言えば、部活をやめたらあとは何をやってもいいような雰囲気がある。指導者がこういう考え方をしていると、部活動から引退したとたんに、態度が変わったりする選手が出てくる。そういう生徒を見ると、結局彼は何のためにスポーツをしていたんだろう、とむなしい気持ちになってしまう。

 

いちばん大切なのは、方法ではなく、考え方であるはずだ。それなのに、どうも方法論ばかり先走る傾向が強いように思えてならない。教育の現場でもそうである。こういう時は姿勢をよくしなさい。こういう場面ではこんな風にあいさつしなさい。そうやって具体的なやり方だけ先に教えてしまう。だが、その前に大切なことは、相手に感謝する気持ちをきちんと持てるかどうかだ。その気持ちがあって初めて、きっちりとあいさつをすることに意味がるのだ。要するに、大事なのは礼儀作法ではなく、ものの考え方である。考え方のベースさえしっかりと刷り込むことができれば、いちいち場面指導しなくても、自分自身で考えて、適切な行動をとれるようになるものなのだ。それは、ピッチの上でもまったく同じである。

例えて言うならば、ファーストフード店の店員さんは、短い時間で、マニュアルを徹底的に叩き込まれる。どんな初心者でも、マニュアルさえ覚えればすぐに働くことができる。だが、一流旅館の中居さんとなったらそうはいかない。一従業員とはいえ、一流のもてなしが求められるのだ。ただマニュアル通りにうごいていえばいいというわけにはいかない。お客さんのニーズを素早く察知し、その場その場で、臨機応変な接客をすることが求められる。悪い言い方をすれば、ファーストフード店の店員さんだったら、誰にでもなれるし、いくらでも代わりはいる。だが、一流旅館の中居さんには、もてなしの心を理解して、気遣いのできる人でなければなれない。何年もかけて築き上げてきた接客法は、誰にでもすぐまねできるものではない、その人だけのものである。つまり僕は、一流旅館の中居さんのような、自分で考え、行動できる選手を育てたいと思っているのだ。