誰もが知る世界最大のジーンズ・ブランド、リーバイス。会社の創始者であり、ジーンズの生みの親として知られるリーヴァイ・ストラウスや、ブランドの代表モデルである501のことは、誰もがご存じでしょう。だが、リーヴァイ・ストラウスは、実はジーンズ作りには関わっていなかった、としたら......?
アメリカン・ヴィンテージ・クロージングを専門とする屈指のリサーチャーである著者の青田充弘氏が、膨大な史料をもとに、今まで日本で定説とされてきたリーバイス神話を徹底検証し、知られざるリーバイス史の真相に切り込んでいくのが本書となります。
この本をぎゅぎゅ〜っと要約するなら…
たかがジーンズ。だけど、世界中の人々が履く”リーバイス”がいつ、誰によって作られたのかが分かる。”リーバイス501”は、アメリカの発展や、戦争などの時代を受けて完成した物である!
以下に、読んで気になったことをメモしていきま〜す。
・僕らが必ず履いたことがあるジーパンは、リーバイスが元祖だということ。何が元祖かって、インディゴ染め、厚い生地もそうだけど、革新的だったのは”リベット”。家に帰ったら見てほしいけど、ジーパンのポケット周りには金属のボタンがついてる。あれがあることで、ボケットに様々なものを入れても破れなくなったってわけ。
(今のリーバイスのジーパンの紙パッチにも「ORIGINAL RIVETED」と書かれている)
ジーパンが生まれたのは、1840年代のアメリカ西海岸、カリフォルニア。ここで、金が発見され大挙して”一攫千金を狙う”人々が押し寄せてきた。ゴールドラッシュ。ちなみに1849年に西海岸に向かう者が多かったから、「49ers」と呼ばれるようになった。これは、アメフトの「サンフランシスコ・フォーティーナイナーズ」にその名は残っている。
・リーバイスの創業者はリーバイ・ストラウス。ユダヤ系のドイツ人でアメリカ東海岸に移住した。兄弟とともに衣服の生地などの卸売などで成功していった。そして、西海岸にも販路を広げるべく、リーバイが進出。当時はパナマ運河が開通していなかったから(開通は1914年)、南米最南端のホーン岬周りか、陸路(大陸横断鉄道は1869年開通)か、パナマ地峡かでいく。リーバイは、パナマ地峡ルートで行ったが、これは当時の最短ルートだった。スチーマー(蒸気船)でパナマへ、パナマ鉄道で太平洋岸へ、再度スチーマーで北上というルート。そこから順調に商売を拡大していく。
・1861年に南北戦争が起こると、サンフランシスコの商売人たちは北軍に献金をする。「カリフォルニアとそのゴールドがリンカーンを勝たせた」と言われる。
・ジェイコブ・デイヴィスもユダヤ系の移民。仕立て屋をやっていたが、リーバイ社で仕入れたデニム生地に、リベットをつける。
当時のデニムズボンは「オーバーオールズ」と呼ばれていた。作業着として、全身を守るという意味合いだった。ジーンズは19世紀初めから、デニム生地のズボンが存在した。特に労働者向けで南北戦争以前は黒人労働者が履いていて「ニグロジーンズ」と呼ばれていた。特に丈夫なイメージを持つ訳ではなかったジーンズはリベットがついたことで進化した。
・初期からアーキュエイテッドステッチはあったみたい。カモメみたいなバックポエットの刺繍のあれ。
・1886年からツーホースマークがつけられた。英語の読み書きができないメキシコの鉱夫は、このマークをもとにリーバイ社だと見極めたという話が残ってる。馬が引っ張っても破れないくらい丈夫!ってわけ。
・1898年までは工場のミシンの動力は蒸気機関だったけど、その後は電化していく。
・1906年4月8日、サンフランシスコを大地震が襲う。工場などが倒壊したが、リーバイ社は新工場などを再建していく。
・1929年から始まる大恐慌で、売上はがっくり落ちる。
・1937年に「赤タブ」が採用される。アーキュエイテッドステッチが特許登録されていないから、他者に真似られてリーバイ社のズボンと見分けがつかなかった? または、Leeのジーンズが勢いをつけてきた危機感からオリジナルなものを!という焦りなのか諸説あり。
・同じく1937年から、コンシールドリベットの商品が売られる。バックポケットのリベットが、ソファーや馬の鞍(座るところ)を傷つけてしまうのを防ぐため、デニム生地でリベットを覆う。
・第二次世界大戦での物資統制によって、生地やリベットの使用量を削減するよう国からお達しがある。バックポケットのステッチも、ペンキになる。大戦モデルと呼ばれ、マニアが求めるモデルでもある。また、バックストラップもなくなる。バックストラップは今のジーンズにはないが、当時は一般的だった。