【本】11冊目『世界のエリートはなぜ「美意識」を育てるのか?』 山口 周 著
変化の激しい時代で、経営者は何を軸に判断したら良いのか? に対して、アートですよ。と著者は言う。
ではなぜアートなの?
・論理は説明責任を果たせるが…、言い訳にもなる。
意思決定の際に論理的な決断は「説明がつき」それなりの説得力があるし、また「説明責任」を果たせる。
しかし、直感的な決断は往々にして「なんとなく」の域を出ない。だから説明責任を果たすことができない。
説明責任を負えることは確かに大事なんだが、それでは正解がコモディティ化=似たり寄ったりに陥って差別化できなくなってしまう…。
他者と差別化して価値やブランドを確立していくはずが、大切な判断においては説明責任という「言い訳」を気にしてとんがった決断ができなくなるよね、と主張している。
・法的にアウトじゃなければ何やってもいい?
あと、変化の早い時代において、法整備が追いつかない事象がある。
法の抜け穴をついて大儲けすることもある。そんな世の中でクオリティの高い決断をするには、「真・善・美」を判断するための「美意識」を鍛えることが必要。
これを読んで、真っ先に旧NHK党のやり口が頭に浮かんだ。
確かに選挙制度のルール内でやっているのだけど、そこには政治に対する責任感はない。けど、別に法的に逸脱してないからいいでしょ!っていうスタンス。
別にいいけど、良い感じもしない。まさに「真・善・美」を感じさせない。
本書の中で引き合いに出されているのは、
GoogleがAIの会社を買収したときに、社内に人工知能の暴走を食い止めるための倫理委員会を設置したという話。テクノロジーの利便性と背後にある危険性を共に見つめ、自ら抑制できるのは、金儲けできれば良いじゃん!というのとは一線を画している、という話。
・とはいえ、論理的思考は絶対必要
論理と理性を両立させることが大事。
昔は人と同じ答えを、「より早く、より安く」求められたら成長できた。まさに、日本の高度成長期。けど、その座は今や中国、次に新興国が担うようになっているわけで、日本の企業は昔の成功体験から脱しなきゃいけない。それは教育も同じ。
・日本の企業はビジョンを掲げているか?
どこの企業もビジョンはあるが、それが聞くものにワクワク感を与え、多くの人に共感を得られるものか? そして、働いている人たち自身が胸を張って言えるか。
ビジョンは「真・善・美」があり、自分も参加したいと思わせるようなものでなければいけない。それは、売上××%アップとかそういう目標でなはく、もっと大きなビジョン。
・世界観とストーリーは決してコピーできない。
デザインや性能はコピーし、コモディティ化できる。けど、ストーリーはコピーできない。Appleがファンを掴むのは、スティーブ・ジョブスの考え方に代表されるストーリーあってこそ。一貫したデザイン哲学。MacBookを持ってスタバで仕事するオレかっこいい!っていう、そんなイメージ。これは、簡単に真似できない。
・オウム真理教の美意識の欠如
オウムは受験エリート、高学歴者がはまっていた。彼らは、決められたシステム内のステップアップを得意としていた。何点取れば合格、昇進といったシステム。その攻略法に長けていた。同じことがコンサル業界にも言える。そこでは、美意識は必要がない。「システムによく適応する」ことは、「より良い生を営む」ことではない。
「偏差値は高いけど美意識は低い人に共通しているのが、文学を読んでいないことは何かを示唆している」。
ナチスドイツでユダヤ人虐殺の中核を担ったアドルフ・アイヒマンは、戦後の裁判で「私は上司の命令に従っただけだ」という供述を繰り返した。ユダヤ人を逮捕、輸送、虐殺するまでのシステムを作り上げたが、そこに人間としての良心は無い。
これは、多かれ少なかれ自分にもアイヒマンがいると思った方がいい。歴史上最悪な出来事の一つが、「真面目」な仕事により起きた。自分の中に「真・善・美」を持たないと、組織の雰囲気やルールに流されて「汚い仕事」をしてしまう可能性がある。
ハンナ・アーレントは、「悪とは、システムを無批判に受け入れること」と述べている。だからといてシステムを拒絶し、反旗を翻しても世の中は変わらない。筆者は、システムを修正できるのは、システムに適応している者だけ。と述べている。これは、学校の教員集団でもきっと同じ。
決断する際や、生徒へ伝える言葉の中に「真・善・美」を感じさせることができるだろうか? 損得だけ伝える大人にはなりたくないと思う。